バッシング

バッシング

第58回のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門参加で現地で話題になり、東京フィルメックスコンペティション部門最優秀作品になり、海外では公開が決まりながら日本ではしばらく配給先も決まらずに一般公開されなかった映画です。



北海道のとある海辺の町のホテルでリネン交換のアルバイトをしてる高井有子(占部房子)は、突然ホテルの仕事から解雇されます。理由は「職場の雰囲気を悪くしている」ということ。実は有子は半年前、中東の戦時国でボランティア活動をしている最中に武装グループに人質となり、無事に解放されて帰国したものの、世間の知り合いはおろか見知らぬあらゆる人から激しいバッシングを受けていました。どこから調べたのか頻繁に家にかかってくる罵倒の電話。コンビニアンス・ストアの前で、買い物を歩道に叩きつけてむちゃくちゃにする輩。半年ぶりに会った恋人の目的は、面と向かって有子を罵倒することでした。そして、有子の父・孝司(田中隆三)は、上司から声がかかり食堂で有子の行動を非難するメールや電話が工場にまで寄せられて業務に支障をきたしていると言い、暗に退職を迫ります。悩んだ上に辞表を出した孝司は酒びたりの生活に。そして・・・・・・。

世間に疎いものでこの映画について知ったのは、ぴむさまの「毎日が映画記念日」のエントリーで、それ以来見てみたい映画リストに入っていた作品。一般公開が決まり、主演女優のトーク・ショーがある日に劇場に足を運びました。なんかその日はちょうどフランスでも封切られる日だったそうです。

大きなテーマがひとつで動きに乏しく、息をするのも憚られるような全編非常に重い映画ですが、最後まで飽きずに見ることができたのは監督の脚本と主演の占部房子の演技力でしょう。この難しい役柄を不自然に感じさせずに演じきったのには敬服しました。そして、監督の人間観察力なのでしょうけど、追い詰められた人間の状態を時には映画ならではのレトリックを使いながらうまく描写していると思います。父親が辞表を出して有子が家に帰って対峙する場面などは、親のふと出る弱さが切ないです。そして主人公の役柄を感情移入できにくいキャラクターにしていることが、映画の題名でもある「バッシング」というテーマをしっかり浮き彫りにすることを導いているのではないでしょうか。また監督がフォーク歌手出身でありながら、というかおそらくあるからこそ、最後の最後、エンディング・ロールまで一切音楽を入れていない息苦しさも納得のいく演出のひとつでした。ちょっと気になったのは家にも自転車にもカギをかけない習慣で、何かそこにも演出意図があったのかと考えてしまいます。

バッシングというカタカナ英語で書くとなにやら少しオブラードに包まれた書き方になりますが、ここで描写されているのは日本語で書けば「村八分」や「私刑」の様子。そういうタイトルでは見に来る人も少ないでしょうけど(苦笑)、ある意味「人間の本質」を描いていると思います。「ある種の人」は「絶対正義」を持った時、「絶対優位」の中で人を叩くことに一種の快感を覚えます。「絶対正義」が「数の”論理”」や「みこし」や「匿名という名の安全サイドのいる立場」だったりもしますが。

私自身の体験の中でですと、子供時代は親の仕事の関係で転勤が多かったのですが、方言が違うと言葉が違うというだけで陰湿ないじめにあったことは、自分の中で大きな人格形成の一端になっています。その当時にネガティブな決断に実行力が伴っていれば、今頃このblogも書き手も存在しなかったのでしょう(苦笑)。「子供(もしくは人間)は純粋だ」と聞いても話半分に聞いたり、「子供(もしくは人間)は残酷な本質を持っている」と思うのも、この時代の「賜物」です(苦笑)。逆に長じてから自分が「絶対正義」の名の下に人と接する機会もあり、その「力の行使による快感」についても知っていて、自分に対する監視の目を緩めないように日々心がけるようになりました。

ちなみにこの映画のヒントになった有名な事件ついては、2年前に新風舎文庫から改訂版の出た浅野健一の「新版 犯罪報道の犯罪」に新しく追加された章の文章が秀逸です。この本自体息の長い名著のひとつですので、機会があれば読まれてください。


『バッシング』公式サイト


「新版 犯罪報道の犯罪」浅野健一
犯罪報道の犯罪


【バッシング 2005年 日本】


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by santapapa | 2006-06-15 23:54 | 邦画
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